さびしい文学者の時代―「妄想病」対「躁鬱病」対談 (中公文庫) |
82年に刊行された単行本の文庫化。埴谷雄高氏の生誕100年を記念し文庫化されたとのこと。北杜夫あるいは埴谷氏のファンでもなければ楽しむことはできないだろうと思われる一冊。ちなみに筆者は北氏のファン。
北杜夫はこの対談時、彼の長い躁鬱の歴史の中でももっとも重症の鬱期だったらしいが、たしかに対談における北氏のしゃべりは、ほとんどの場面で精彩がないし元気もない。ほとんどが相槌かと思えるほどだ。一方、埴谷氏は饒舌だ。この対談は埴谷氏の独壇場といってもいいくらいだ。まぁ、話の弾まない対談はつまらないのが当たり前で、この対談もその例外から漏れずおもしろいとはいえない。北氏、埴谷氏のファンでもなければ、つまらん、の一言で片付けられそうだ。 で、北氏のファンである自分がどうだったかといえば、やっぱり対談自体はつまらなかったのだが、精彩を欠いている北氏の姿を想像するとなんともおかしいという微妙なおもしろさを感じてしまった。鬱に苦しんでいる北氏の姿をおもしろいというのは甚だ失礼なことだが、躁鬱自体が個性になってしまっている北氏であればそれもありかと思う。 |
死霊〈1〉 (講談社文芸文庫) |
1巻は探偵小説なので面白い。
それ以後の巻は、思考を強制する呪文、そしてその思考の継続を受け継げさせるための遺言のような感じ。 そんな書が文庫になってしまうのは、悲しいというか社会の終焉さえ感じさせる。 存在というものに、秩序や整合性や必然性を感じるか、意味の無意味性を追求するか、問い自体の空虚を感じるか、いずれにしても、人間の感覚に根ざしている点で、哲学小説ではなく、おそらくもっと単純で深遠である。 |
変人 埴谷雄高の肖像 (文春文庫) |
若い世代の著した聞き書きの最高峰のひとつに数えあげられる名著です。著者の木村さんより少し上の年代として、このような書物を待ち望んでいました。
さて、立花隆さんの序文にもあるように、木村さんは全文を5回は書き直している、その実り、息遣いが、行間から立ちこめてきます。また、副題も評伝ではなく「肖像」としているところが控えめに的を射ていると思います。 中身について僕がとりわけすばらしいと思ったのは、木村さんの学生時代の問題意識が質問にぽつりぽつりと現れてきていて、それが嫌味でなく、とても質の高い切実さを伴っていることです。抑制が効いていますが、僕にも覚えのある人生問題に対してとても率直なんですね。そしてまた対象の作家先生方も木村さんの質問に、それぞれの芸風を彩りとして添えながら、誠実に、的確に、歯切れよく、先達として精一杯の対応をしていることが読み取れる、ことです。 これはインタビュアとしての木村さんのお人柄なのでしょうね。同時に、こうした先達と接することのできた木村さんは幸せだなあと、うらやましく思いました。書いて成長するってこういうことなのですね。 そう、こうしてレビューを書いていて思ったのは、この本は「知性とコミュニケーションにおける誠実さ」があふれているということです。薫陶、というのかな。ほんとうにいい本です。僕は木村さんのファンになりました。 そうして、そのような木村さんを生んだことが埴谷さんの「まわりの人たちを励まし、勇気づける」美徳の、最後の、最高の仕事になったのでしょう。 |